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【2024/04/20 14:16 】 |
幸福度
幸福は人生を図る指標として使われる。

周りを見渡せば、自分が幸福であることを他に示したり、幸せであることを偽装したり、他の人とは違う本当の幸せとは何か(まるで密教の教えのように)こっそり抱えたり教えようとしたりしている。

Facebookの幸せ、楽しそうアピールとか、そうでなくも幸せをひけらかす輩は多い。(個人的には、あそこに食べ物の写真をさらす奴は、自分がこれだけうまいものを食えているという幸福アピールに、これだけ栄養素があるものを獲得できる意味で遺伝子的に他よりも優れているということを(主に異性に)示すアピールもあると思っているが、この説明は省く。)

なぜか、皆、人生は幸せであるべきだと思っている。
そして、幸せのパターンは人によって違うといえど大体決まっている。お金、地位、名誉、よき伴侶、よき友人、よい食事・・・・・

でも、大多数はそういった幸せとはかけ離れた人生を歩んでいて、幸せだろうと思い描こうと必死になってもがいている。
(幸せの形は決まっているが、不幸の形はたくさんある、というトルストイの言葉がよぎる)

さらに、幸せのパターンに沿った人生を歩んでいても、幸せだと感じない人も大勢いる。
(大多数は違うかもしれない。これでいいんだ、と、自分をだませる人なら。自分という存在は自分でとてもだましやすい。「だからこそ最新の注意を払わないとならない」、そう思っている人にとってはそんなに単純な話にはならない。)

たぶん、幸せは人生とあまり関係がない。
幸せとは以下のようなものだ。
単純に幸せという感覚が脳内物質の問題や自分の遺伝子をより良い形で後世に残すことだと仮定して、まあ、死なない範囲でドラッグをやるとか、(あれは人間が自然的に得れる快感の範囲をはるかに超えているため、なかなかやめられない人が多いのだ)、社会的にだめなら社会的に許される範囲で楽しいこと(お金、地位、名誉、よき伴侶、よき友人、よい食事をはじめとして、酒、煙草、威張る、権力をかさに着る、人を顎で使う、インテリぶる(大抵自分がわかってないことをわかってない状態で))をすればいい。合法的にできることなんていくらでもあって、大抵みんなそういったものを目指している。

一方で、人生とは、まあ人が生きているというだけのことだ。死ななければ生きている、それだけのことである。

つまり、幸せでなくても人生は人生だ。
そして、幸せであるほうが人生は長続きさせたいだろうし、納得しやすいものになるだろうが、幸せでなくとも人生には納得できる。

人生に納得することと幸せにはある程度つながりがあるが、果たして我々は、そんなものが所詮脳内物質の仕業だと気づいたときにも、そんな”幸せな状態”をもって納得していいのだろうか。

いいのだろうか、というか、実際のところ、そんなものでしてしまうものなのだ。そんなに人間は強くない。結局、自分が頭で思い描いている人生があったとしても、結局今まで昔から人間が幸せだと思っていたもの(食、睡眠、怠惰、性向)に屈する。

それでもそれに反抗したい。
これが理性である。
最後に納得して死ぬときには、自分が幸せでなくてもよいいう吹っ切れた、俗世離れした、大抵誰にも理解されない、そういった類のものであろう。
人の幸せは百人十色だから、そいつにとっては、それが幸福だろう、とかいう相対主義者は多くいる(大抵文系の間抜け野郎で、美学も何もなく何も後世にためになることを生み出さず死ぬ俗人どもだ、まあ俺もこの部類かもしれない。絶対的なものへの崇拝は神的崇拝のようなものに近いが、我々の知性は曲りなりもそういう形で進んできたのだよ、macbookを使って教養のあるふりをする諸君)。
否。
原始時代からの報酬システム(原始的な幸福を生み出すものへの執着)を乗り越えるものが理性で、それを乗り越えた人生と、乗り越えられない人生には確実には、違いがある。幸せかどうかは関係なく、それ以外の、言葉にはなっていない何かの質の問題だろう(言葉になっていなくても、存在するものはある、あたり前の話だが)。

そして最終的な問題は、乗り越えた先で、何をしたいかにかかっている。所詮遺伝子の要請以上のものはないのだろうか。そうだとしたら、こういった理性には何も意味がなくってしまうのだが。

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【2015/06/28 23:47 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
社畜
社畜とはなんだろうか。
社は会社の社で、畜は、畜生や家畜の意味だと思う。
5歳児以下の書き出しだが、我慢してほしい、とにかく何か書きたい気分なのだ。

会社とは何だろうか。似た組織形態が歴史上あったか。
とりあえず、会社というのは、金を設けるための団体に間違いはない。設立や行動目的が金だけだと言っているわけではなくて、ただ単に、その組織構造が利益を生み出すこと、ないし利益を生み出すための機能に特化しているということを述べたい。
人々の役にどれだけ役に立ったとか、人類にどれだけ貢献したかなどは副次的な意味しかなさず、法律にのっとっていうという程度の誠実さを纏って利益を上げることが会社の現状であり、そうでないと存続できない。

存続、まるで生き物のように会社を扱っている。いや、もしかしたら生き物なのかもしれない。

そんな思いから、ある妄想のもとにストーリーをくみ上げてみた。

人間は、生きている限り、金と権力から逃れられない。
それをひしひしと感じさせる例が、働く、ということだ。
会社(およびそれに準ずる組織)にはルールがあり、上下関係、つまり権力があり、そしてその中で生きることで、金を受け取る。
働くということ以外でも、ほぼすべての人生の活動は金と権力にかかわってくることに間違いはない。あらゆるものに、金、モノ、ルール、権力がまつわる。
一回、こんな世界から抜け出したいと思って、自分は家でずっと寝てみたり、遠くに旅行に行ったりしてみたわけだが、そのたびにこの事実を強く突きつけられている気がする。(ずっと家で寝ていてもお腹がすき、ご飯を買うのにお金がいるし、水道、ああ賃料。そしてゴミ出し、洗濯。)
一番いいのは仙人になることなのかもしれない。自然の中で生き、死ぬ。権力も金もモノも関係ない。

さて、ここまで考えたときに、金と権力が存在するのは、人間が集団的に行動する動物だからに違いないというアイデアがよぎった。集団で行動するときには、上下関係(役割)、食糧配分・生活のルールが生まれてきてしまうものなのだ。そのルールが現代では、金や民主主義とか社長とかなのだ。でも、なんでそんなルールになっているんだろう。むろん答えはないけど、他にだってやり方はあるだろう?(共産主義どうのこうの言っているわけじゃあない。もっと根本的なことだ。)

お金というか貨幣という概念自体は昔からあったが、どこの誰が、なんのために考えたのだろうか。
よくある答えは、商人が、自らの商売の便宜のために、もしくは物々交換より効率的なシステムであるから、というものだ。もっともらしい。でも待てよ。もっともらしいということ自体は真実とはなんの関係もない。むろん真実は証明しようもないから、あるところで納得するか考えるのをやめるしかないにしても、だ。

自分はこう思う。
貨幣という制度を最初に取り入れたのは、ある程度権力を持った人間であった。つまり貨幣の登場以前に当然権力関係は存在していて、その上にお金という制度を取り入れた。一体なんのために?
自らの権力や地位をより確固たるものにするためだ。
そのころの権力というのは、例えば宗教的なものとか、民族的な血にまつわるもので、リーダーが決まっていた。でもその概念というのは、非常に不安定なものだし、争いを生みやすい(歴史的にも、正当な宗教の後継者や王族の争いというのは熾烈であった。もともと目に見えにい権力というのはいさかいを生みやすい。)。権力者も、そんなあいまいな概念に身を寄せて暮らしているだけでは不安である(無論、権力者は自分の権威を示すための工夫は忘れることはない)。そこで、お金という目に見える形で、なるべく平等に見えるように論理で武装して、一般市民にはわかりにくい形で権力関係を固定することを試みた。
金を作り、権利的な関係の上に献上してもらっていたものの対価として金を渡す。別に金を渡さなくてもうまく回っていたのだが、金を渡すことで相手により納得感を与えられる。とは言っても、そもそも、なぜ、ものを献上しなければならないかというと、それは権力的な関係のせいだ。(最近はものではなくて、お金を献上する仕組み、つまり税ってやつだ。その昔はお米だった。税を納めなければいけないのは、民主主義というこれまた不思議なシステムのベールをはがせば、権力のためである。税を納めないと捕まり牢屋に入れられ、労働させられる。)

ちなみに、そのお金は権力者の手が届く範囲で使用可能であり、つまり、そのお金を持っている限り、そのお金を持っている人はその体制の安定性に寄与するほうが得をするわけである。これは権力者にとってありがたい。お金を持たせることで相手をむしろ縛るわけであるし、貨幣がg流通する範囲で自分の影響力も広がる。権力者はお金を権力の範囲で好きなだけ発行できるので、実質的には一番優位に立っているが、金本位性等、作れるお金には限界はあるため、お金を多くため込んでいる人間がいる場合、貨幣経済の論理が浸透しすぎると権力者にとっては脅威になる。別に、いちゃもんをつけて、貨幣経済の論理以外の力(軍事力)でお金を奪い取ってしまえばいいのだが、あまり派手にやりすぎると、折角ベールに隠していたいさかいを生みやすい権力関係の部分がぎらつき、権力者に対する反抗を生みやすくなるので、なるべく穏便な形で避けたいというわけだ。
物々交換よりも効率的なシステムというだけではない、より権力のあるものが発行したお金であるということがそのお金の価値を担保する。別に、権力があれば、誰が発行したお札でも構わない。
ここでいう権力は、相手を屈服させる力、奪い取る力、つまり暴力、軍事力だ。人間も動物である。食糧やその他必要物資が生来的に必要で、生きるためには最終的にはそれを奪い取る必要がある。これがすべての根底にある原理だ。(人間は理性的であると信じている人にとっては受け入れがたいかもしれないが、少なくとも人間には理性的でない部分もあることは確かだし、少しでも観察すれば他の動物があまりにもこの原理に従っていることに異論をはさむ余地はないように思う。つまり弱肉強食だ。)

結局、プロレタリア革命が起こって、宗教的なものや血をよりどころにした権力者の時代はおおむね終わりをつげ、貨幣を持っているものがもっとも権力を持つ者と同義になった。
そいつらの考えた論理はさらに、巧妙なもので、資本主義だとか(考えてもみろ、資本主義という言葉の持つ意味を。お金がないものにはどれだけ皮肉に聞こえるものか。)、民主主義だとかいうものだ。(共産主義はどうかって?これは資本主義に対する対抗だったのはよいが、貨幣の論理をなくした先には、そもそも人間が持っている権力関係を表出させるだけであったために、貨幣経済信奉者にとっては耐えられない苦痛に見えた。皆が平等だという考えはいい。権力者にとってはそれを信じている羊は扱いやすいのだから。)

これは非常に巧妙だ。
まず、権力者は一般人が選べることになっていたが、権力者が権力者たるためには、後押しが必要で、そのサポーターは金を持つ者のため、実質的にはサポーターが大きな影響力を握れる。マスコミでもなんでも使えばいい。(ちなみに、会社という新たな権力関係を生む機構が生まれる。つまり、金のために”人を使う”ということが公然と肯定されたのだ。これは金持ちにとってとてもありがたいことだ。むろん、あまりに行き過ぎるとお金の論理がぎらつき、金持ちに対する反感を生むので、一定の制限をもうけることには双方にとってメリットのあることであった。つまり、議会に法律を通すことを認めるのだ。その意味で民主主義は、多くの貧乏人が怒り狂って金持ちを殺しにいかない程度にはお金の論理を否定する。)
サポーターという立場は一番いい。まず、前面にでてストレスや不満のたまった貧乏人から批判されることもないし、権力の範囲が多くなればなるほど、民衆の前に出ることはリスキーになった。なぜなら、たとえ日本で5000万人を屈服させても、残りの5000万人が納得しなければ権力は安定しない。割合ではない、絶対的な”数”の論理がそこにはある。100人であれ、本気で殺しに来られたら一人の権力者にとってはひとたまりもないのだ。だから、見えないところで自分が手綱を握っているのが一番よい。もしくは、手綱など握らなくてもお金の論理を使って好き勝手できればよいのかもしれない(法律の範囲内でお金によって人を屈服させられることで満足するのならば)。


自分は権力者権力者言っていて、まるで悪者だが、絶対的なものではない。
つまり、他人を使って安定して楽でよい暮らし営み、他人に命令されない。これが権力者の願う生活だ。つまり自分たちとさして変わらなかったりする。自分たちのように不安定で人から命令され厳しい生活をするものからすると理想である。つまりそういう生活は他人の犠牲の上に成り立っている。社畜は犠牲者であるが、まだ自分たちなどいいほうだ。
軍事力もある程度あり、権力機構も安定している我が国は(アメリカという巨大軍事力国家の庇護のもと)、他の国の人々を安い給料で働かせてものを輸入できるので、結果的にはある程度優雅な生活をしている。高級奴隷のようなものだ。いうことさえ聞いていればそこそこの生活はできる。(発展途上国、最貧国がずっと貧しいのはなぜか、我々が間接的に搾取しているのだ。彼らの国で米ドルが信用があるというのはどういうことか。すなわちアメリカという国のお金の論理が権力範囲がその国まで及んでいるということで米ドルを持っている人間は権力を行使しやすい。米ドルと安定的に価値を交換できる通貨をもつ人も同じだ。お金もちはボーダレスにその力を行使しやすい時代になった。お金持ちにとっては都合がいいのだ。ついには、世界的企業というかたちで国家の権力をゆうに超えてしまっている例もあるかもしれない。世界的企業がお金によって複数の国の政治家をコントロールできれば、それほど権力者にとって楽なことはない。国という隠れ蓑の統治機構を作った時にできた民族や国のアイデンティティが複数の国をまたいでお金の論理を通用させるためには大きな障害になっているのだ。そこでグローバル化という考えはいい。大体お金持ち(と軍事的にも一番力を持っているの)は欧米人で、白人の論理でものが進むのがよいに決まっているから、英語で、欧米のルールで画一化がきまる。言っておくが、今の時代も大戦の時代と同じく弱肉強食なのだ。欧米のいい暮らし、素晴らしい人権、公平なルールなどという考えは、彼らの国の金持ちたちが実質的に影響力を持ち得る世の中を作っていくために必要な甘い言葉でしかなく、国籍や国境に関係なく多くの貧しい人をお金の論理で動かしていくという意向でしかないのである。
国連・国際会議などを重要視せず、日本の権力者が自分の国の国民に対する支配を欧米諸国の亜金持ちから守り切れるのであれば、日本人の我々にも金持ちになって(日本人を使うことで)よりいい暮らしをできるという道筋が描けないこともないが、欧米の論理が入ると、日本人の自分たちが彼らの中で、彼らを使っていい暮らしをできるという算段ははるかに立てづらくなる。
ただでさえ、白人>有色人種がグローバル文化の前提なのであるから。

このように、日本人だ、日本だ、白人だ、という意識は、民族や国家、人種をもとにいろいろなことを考えている証左なのである。つまり、血や部族、見た目などによってアイデンティティを構築する・・・・・原始時代と変わっていないではないか。悲しきかな。とりあえず貨幣の論理に関してはこんなとこだ。

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【2015/03/19 01:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
新しいブログに移転します。純粋なこころだけは。
ここでは掃き溜め的頭の整理をしていこうと思う。
だれも見ていないしな。
でもネットに上げているところが未練がましい。おそらく誰も見る可能性もないのにものを書くのが嫌なのだろう。ツイッターみたいなものか、だれかに見ていてほしいっていう。愚痴り始めると常人より長いからツイッターではなくブログをやっているのだろう。

さて、暇があるときにでも少しづつ意味のない話をしていきたいと思っている。
ここまでお付き合いいただいた方には申し訳ないがさらに面倒で退屈な話以下の何かを書こうと思う。

トランスについて。

新しいブログには自分が作ったトランスを上げるつもりだ。
DTMというパソコンで音楽を作ることを初めてはや3年になる。途上就活があったり家で寝ていたり遊んでいたり(勉強はしなかった、これだけは言える)していたために実質はもっと短いだろうが、始めたときから換算するとそのくらいになる。
どのくらい上達したかって?

まあ、まあ、だ。

時間の割には少し足りないのではないか。そして自分がその上達に全く納得していないのは確かである。
その原因は以下のように考えられる。

1 死ぬほど必死にずっと取り組んでいたか

  物事を取り組む際には姿勢というものが大事になってくる。確かに音楽は好きだ、作るのも好きだ。だが、あまりに根を詰めすぎると楽しいのか楽しくないのかわからなくなってきて、怠惰かもしくはストイックな生活の中で、目標(最高のトランスを作る)を達成するまでこれを続ける選択肢を取り続けることができる自分がいるのか不安になってしまうのだ。
結局目標を達成する心構えで居られるかどうかという自分自身に対する恐怖、これが弱さと怠惰の原因なのだ。精神力というやつだ。
これがない人間はやりきれなさをなんとかごまかしながら一生適当で終わる。これは間違いない。自分はだんだんこの種の人間になってきていて、それをとても感じる。高校までのほうが尖っていた分精神力はあった気がする。完全に社会不適合者ではあったが・・・・

第一自分は中道というものが嫌いなのだ、怠惰なら思いっきり怠惰で居たいしストイックなら思いっきりストイックで居たい。つまりかっこつけだ。でもそういう生き方をしてるとつらいのがやなので自然と常に怠惰になってくる。ずっと怠惰でいるのも辛いので、適当にストイックに生きることになる。つまり、適当で怠惰になってくる。
こういう種の人間には常にストイックで生活するより人生をやり過ごす方法はないのかもしれないと思う。ストイックとは何かについての考察を激しく省くとこういうつまらない考えも生まれる。

2 周りから学ぶ姿勢は足りているか

  確かに本やスクールに通っていたかというとそうではない。本気ならそうすべきだ。もっと外に出て自分の実力を試すべきだ。そちらのほうが早い可能性が高い。しかし、これには自分にとって2つの問題があった。
  一つ目は本気でのめりこんでしまうこと。自分は一つのことにのめりこむタイプであるので、いわゆる就職だとか、働く稼ぐだとか、人間関係だとか、そういうものを全てないがしろにしてしまう危険があった。本当にこれが怖かった。そんな世界で食っていけるはずがないのがわかっているから、割く時間と精神の割合を抑える必要があった。あるときハッと気づいた時には音楽にも興味がなく、すべてが手遅れになっていて、取り返しのつかなくなっていることはあり得る。自分の興味ほど時間とともに揺らいでいるものはないというのを知っているからだ。
だから、ある程度通常の収入が得られる地位は維持したいと思って行動した。でも、そのためのプロセスを積み上げるのはそれなりに時間がかかる。それにその他いろいろなくだらないことで葛藤しなければならない無能さが原因でさらに時間を食った。
  二つ目は、プライドだ。全部独学で、自分のアイデアで、何かを作りたかった。つまりバカだ。基本的に先人と先人を貴ぶ知恵が足りないのだ。自分が考えたことのほとんどは世の中のだれかがすでに考え付いているか、もしくは新しいことを考え付くとしても一生かかってようやく一つくらい生み出せるかだ。だけどそんな厳しくてずっと押さえつけられて学び続けなければならないのは理不尽に思った。もっと新しいものを多く一生のうちに生み出したい。そのためには、早急に、磨かれていないがだれも考え付いていない、もしくは、ほとんど誰も磨ききっていない何かを見つける必要があった。パソコンで音楽を作ること選んだのは、それが自分にとって音楽にかかわれる唯一の道であったからで、その考えにに近いことかどうかはわからないが、すくなくともこの比較的新しい分野で何か違うセオリーを見つけられるとすれば、それはなるべく一般的なセオリーとは違う方法で学び始め、違う視点を身に着けることなのだと思ったのだ。
甘い。これが甘かった。結局はセオリーを全て学びきりもう飽きて飽きて全て暗唱できるくらいでないと新しいものなど出てこない。これが真実に違いない。能力の違いはこの暗唱の習得にかかる時間や労力だが、能力があっても基本を無視したり読み違えれば一生を浪費して過ごす。
勉強してない奴ほど独力でやりたがり、自分の間違いに気づかないまま間違った主張を繰り返すのに似ている。第一自然科学以外の分野では、往々に権力や肩書によりどころを得ているために、中身のないことを主張している自己中心的で反省ができない奴が一番上でのさばるのが常態化している。(性格ではなくて学問的に自己中心的で反省できないという意味だ。)
そういうやつらは人類史において、良くても反面教師ぐらいの役割しか果たさないだろう。反面教師となる人々は歴史上に多すぎるのでもう必要ないはずなのだが・・・・・
話がずれた。が、そういうことだ。

3 本当に向いているか、する価値があるか

  この問いはする意味がないが、なかなかぬぐえない。どちらも自分が納得すれば問題ない。一番自分が納得できるのは結果がでることに間違いはなく、そうでなければ自分の意思を貫いた人かただの変わり種として死ぬ。結果が出ずに納得できてしまうほどハッピーなら、何があっても大抵ハッピーな楽観主義者であり、自分を追い込む気概を持てず努力が欠けるので結果は出にくい。相対的な意味での結果(スポーツとか順位をつけて一位を争う類のもの、もしくは出世とか社会的なもの)であれば運の要素もかなり大きいのではあるが・・・
だから相対的な物事に関してはそんなに構えなくていられる。運の要素がでかいから、そいつがうまく働くような格好でいればいいだけだ。もちろん程度は物事によってことなり、社会的なもののほうが運の要素が強い。
社会的な地位や評価に、能力の高さや人間的な高潔さの理由を求めるさまを散見するが、必然性の程度はそんなに高くないと思うのだ。

1~3を総括して、今後のトランス制作にかかる方針をまとめるとこうなる。

限られた時間内でもストイックに、かつ謙虚に学びながら制作に取り組み、あくまで絶対的な結果(相対的な結果は確実にその前に現れている)をもってして満足を得る。

自分の精神衛生上難しい目標のため、当面はこれを考えながら楽しんで作ることとします。

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【2015/03/10 00:06 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
今日見た夢の話をしようか
いや、不毛すぎる。


何を書いても不毛だが。

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【2013/07/10 01:08 】 | 日記 | 有り難いご意見(0)
国際関係理論がき
久々の更新ですね。最近はトランス作りに励んでいます。シンセと格闘。就職活動そっちのけで。

最近誰とも真面目な話をしていないので(そもそも人と話してない)、ここら辺に吐くしかない。

2か月前の医者との会話。
医者「法律を学んでるんだー」
俺「はあ。」
医者「どう?」
俺「なかなか大変ですね。つかみどころがないというか。」
医者「しょうがないね。科学じゃないからね。文化を学んでいるようなものだし......」

なにか見下されているような感じを受ける。屁理屈をこねれば、別に文系も理系も同じ”科学”と呼べる。
しかし、文系学問に対して感じていた鬱憤みたいなものを言い当ててくれたようでうれしいような複雑な感情。

鬱憤?
大体一年前くらいから、文系学問(法学、国際関係学、経済学、社会学なんでもいいが)に違和感を覚えていた。
これは今まで習ってきたものとは、何か”質”が違う。

このよくわからない違和感が何なのか、最近其れなりの結論に至ったので書いていこうと思う。

まず、日本語における”科学”と”学問”を区別する必要がある。

”科学” ある一定の方法に基づいて構築される。一般的には反論可能性などが必要
”学問” 体系化された知識ならばなんでもよい

まあこんな感じで、学問と科学には質の差がある。(最も、日本語であまり区別はされない)

俺がこの大学に入って、文系の学問が如何に科学から程遠いか知ることができたのはよかった。
最近ガイダンスを受けた国際関係系の授業を例にとり、これらの分野がもはやフィクションを学ぶレベルに近い事を伝えたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、1000字位書いた内容が全部消えた。忍者ブログクソ過ぎ。
折角書いたのに。

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【2012/10/06 00:22 】 | 政治・経済 | 有り難いご意見(0)
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