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久々の更新ですね。最近はトランス作りに励んでいます。シンセと格闘。就職活動そっちのけで。
最近誰とも真面目な話をしていないので(そもそも人と話してない)、ここら辺に吐くしかない。 2か月前の医者との会話。 医者「法律を学んでるんだー」 俺「はあ。」 医者「どう?」 俺「なかなか大変ですね。つかみどころがないというか。」 医者「しょうがないね。科学じゃないからね。文化を学んでいるようなものだし......」 なにか見下されているような感じを受ける。屁理屈をこねれば、別に文系も理系も同じ”科学”と呼べる。 しかし、文系学問に対して感じていた鬱憤みたいなものを言い当ててくれたようでうれしいような複雑な感情。 鬱憤? 大体一年前くらいから、文系学問(法学、国際関係学、経済学、社会学なんでもいいが)に違和感を覚えていた。 これは今まで習ってきたものとは、何か”質”が違う。 このよくわからない違和感が何なのか、最近其れなりの結論に至ったので書いていこうと思う。 まず、日本語における”科学”と”学問”を区別する必要がある。 ”科学” ある一定の方法に基づいて構築される。一般的には反論可能性などが必要 ”学問” 体系化された知識ならばなんでもよい まあこんな感じで、学問と科学には質の差がある。(最も、日本語であまり区別はされない) 俺がこの大学に入って、文系の学問が如何に科学から程遠いか知ることができたのはよかった。 最近ガイダンスを受けた国際関係系の授業を例にとり、これらの分野がもはやフィクションを学ぶレベルに近い事を伝えたい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、1000字位書いた内容が全部消えた。忍者ブログクソ過ぎ。 折角書いたのに。 PR |
政治の話というのはどうしていつもこう浅薄でくだらない不毛な論点でいっぱいなのだろうか?
”責任”・”民主主義”・”権利”、等等まあ息をするように並べる御託で息巻いている姿は目に余るものがある。 この国がもっているのは、真面目で人がよい常識感覚のある国民のお陰と考えるほうが道徳的には正しく、テレビに出てくる暇がたっぷりあるインテリぶった学者や政治家は少し黙った方がいい。(それでも政治家は何か言うのが仕事だ) 増税に関しては、経済学的に見てセオリーの策とは正反対の事をしているのにあれほど自信満々だと、まだ自分の利益の為に動いていると考えた方が安心できる。無能な指導者ほど危ない乗り物はないということだ。 ・・・増税だと? 詳しくは知らないが、消費税だけではなく、住民税やら所得税まで。(税制を複雑にする動機は、携帯電話会社が契約プランを作る動機と似ている) まず、不況下に対する対策がマシだったせいで、リーマンショック後でもあの程度ですんだアメリカ政府は財政均衡など持ち出さずに、素直に量的緩和をした。 というより、アメリカ発の全世界的バブルの好況の中にあっても、日本は構造改革だか何だか知らないが緊縮財政を引いてデフレを長引かせたお陰で国民は殆ど恩恵を受けず、それもそのはず好景気でなかったら今の日本の状況はもっと破滅的であったろう。 小渕総理の経済に対する考えはまともだったと自分は考えている。途中で亡くなられてしまったので、その成果は殆どお蔵入りだが、国債を発行して量的緩和(ケインズ的政策)はあの時点では妥当だろう。国債発行額が小渕総理のせいで増えているなどと簡単に非難するのは的外れだということだ。むしろ後の政権がすべきことと真逆のことをしたおかげでバブルでも景気は大して上向かず、本来ならインフレになった日本経済を緩和するために自然と出てくる増税という案が出る事もなく、結局デフレで財政収支はあまりよろしいとは言えない中(根本的には円建て発行なので問題はは存在しないが)増税をするという恐ろしい状況になってしまった。 ・・・野田総理は本当に気づいていないのかも知れない。 小沢議員も反対しているが、理由は政治的なものだけかもしれない。(多分そうだろう) まあ、国民が政治に期待できるとか言っている国は相当危ないと言える。そもそも(常識感覚を持ち合わせた)優秀な人材が政治家になろうと思うとは到底思えないのはなぜだろう。 まず、”日本について考えよう”とか言っているくせに知識のない奴が多すぎる。俺を含めて。 |
http://fortrhymer.blog.shinobi.jp/Entry/76/ にも書いたが、しかし、今増税というのは常識的に考えてオカシイ。
デフレについての考えはやはり自分では考えは回らなかったが、、、 確かにこういう問題を論理的に考えれば、今は増税すべきではないというのはアタリマエだと思う。多分国会議員は大学生より経済が分かっていないという事に違いない。とかいいたくなる。 メディアの話が出ていたが、えてしてメディアのトレンドが政治に興味のない若者によって作られているから等という安易な考えに走るのはやめた方がいいだろう。メディアがリテラシーを実質的に失っていることは、否定しようがないのだから。 右であろうが左であろうが関係なく同じような版でおされたような記事が並ぶ言論の自由というのは果たして、、、、、、民主主義や言論の自由を盾にして思考を停止させることになれてしまったようだ。 俺はと言えばやる事がないので考える時間だけはある。 最近確信したが、こういった問題をきちんと考えているやつっていうのは本当に少ない。結局酒のつまみ程度なのに、”学”生を騙ってしまっているのだ、愚かしい。考えてみれば全共闘時代などから学生はそんなものではないのか。ろくなものではない。 所詮大学生などというものは、国民経済の消費増大に積極的に貢献していればいいのである。 大学生で本気で学問など出来る体の奴など見た事がない。今までの通り(資格)試験の為の勉強か本を読むくらいがせいぜい出来る最大限だろう。勉強を真面目にしていると自負している奴らほど俺にとっては学問をしてる奴らとは程遠い。学問が何かって?自分で考えずに俺に聞くのはやめてくれ。 らしく授業に出て単位でもとって、適当に自惚れて、社会的に認められればいいのである。 俺は学問など出来ないのでそうする。いや、他の奴も薄々分かっているのでそうしているのではないか。 |
TPPに反対ですか賛成ですかという議論が日本を席巻している。
そう言えば、一年前にも問題になって、自分のサークルでディスカッションしたこともある。 その時は、なかなか情報がなく、TPPは農業か工業化の二択という問題なのだろうという説明だった気がする。 うん。少なくともその二択であればTPPに参加するというのも国の選択かと思った訳だ。 それ以外の論点があり得たのかというと、一年前、自分が通っている大学の新聞に、反対派と賛成派の教授の意見をそれぞれ載せた記事があって呼んだのを覚えている。 残念ながら、殆ど意味のある論理はそこには存在せず、(専門用語、及び経済用語と、ある学説の論理をその学説の欠点を考慮せずに前提として用いる手法。一般的な説得力は持ちえない。)この大学の経済学も大した事がないな、と改めて感じさせられた一年前だ。落胆したので覚えている。 そもそも大学にはあまり面白い教授がいないのではないかと本気で思う事がある。皆資格試験の通り道とかGPAとかそんな事しか講義に関しては興味を持たないだろうし(法学部はどうかって?法律が好きな人が勉強するか資格試験の過程の一環ではないか。大学では資格試験以上の法律の議論は殆どない気もする。だってそうだろ。たまにある比較法などは大学で学ぶ価値はあるかもしれないが)、その程度の大学の講義なのである。(自分の大学の場合) 生徒が、講義について気にすることはその先生が如何に単位が取りやすいか、出席は如何に、授業形式は等が主であり、講師の説得力や学問的評価などには興味がない。そもそも教授の実社会に対する問題意識がない。(その意味で本○教授の講義はいちばんいいと思う。法律学は批判の学問だ、とおっしゃっていたし、彼の授業にはどんなに調子が悪くても出ようと思う。)別に文学研究等の分野であるなら畑違いだが、しかしこの大学の教授の講義の下手さ、実社会への還元力のなさには飽き飽きした。成績の為に仕方なく出るが、駄目だこれは。俺はその意味で、自然科学の講義でも聞いて、科学的な知見を深める方がよっぽどましだと思い、優先的にとった。 大学教授の趣味でやっている研究の理論を聞くのも楽しいが、現実社会に対する問題意識を持った研究者がいてもいいのではないか。俺は変な事を云っているのか? 実務家を呼んでくる、講演を拝聴する形式の講義の方が、普段の授業よりも説得力をもちよっぽど身になるし影響力を持つのはどういう訳だ?(それが貴重な機会だから?我々が大学という期間を通じて学問をすることは貴重な機会ではないと?) 今、増税にしろ、TPPにしろ、震災復興にしろ、円高にしろ、東電等政治とカネにしろ、原発問題にしろ、何にしろ、今議論が必要な事があふれているではないか。 なぜ、大学の教授は、なぜそれについての知見や考えを生徒に教えない。分野が違うから?なのか。そうだとしたら、それこそが、この大学が”象牙の塔”であることを自ら証明してはいないか。今国を変えるかもしれない事について、学者が考えなければ一体誰がかんがえるのだ? 高校の政治経済の授業の方が100倍くらいましだった。彼は高校の先生ではあるが、自分の考えを持っていて、事実を教えながら、それと区別すると言った分別を持って(それがないと高校の授業にはならない)、その範囲内で自分の意見を披露していた。 大学では、そのような高校の教科としての壁を越えた意見が出ると思ったが、そうではなかった。 肝心な論点になると、批判を恐れてか、言葉を濁したり、所謂世の中の流れをにおわす。今起こっていることに対する評価は避ける。 自分は散々マスメディア批判をしてきたが、日本の大学のあり方も相当な問題だと思う。政財学の癒着と言われるが、学問分野の改革というのは果たして進んでいるのか。そもそも何を変えればいいのか。そんな議論もない。 この大学は政府に対して戦ってきたとかいう自負がある筈だが、もはや過去の遺物である。要は金の為に政府にお伺いを立てる事を戦いと履き違えたのか、それとも政府から金があまり出なくなった事のひがみか知らないが、政府批判をする講義など一つもない事におどろいた。殆どないのである。 (驚くべきことに景気循環論という、出席しなくても単位Aが余裕でくる講義で政府の経済政策批判をしていた。多くの経済学部の学生は彼を批判するが、というかそもそも授業に出ていないが、残念ながら彼らに論破することは不可能だ。別にだからと言って正しい訳でもないが、筋は通っていない訳ではないのだ。無論古い理論ではあるが。ただ問題は声が小さいこととしゃべるのが以上に下手なことで、自分は毎回一番前に座っていたが、かろうじて声が聞こえる程度であった。) 大学は、 つまらない授業に出続けるという能力を求められる所であって、実社会の判断材料になる知識を通した議論や講義に積極的に参加する所という意味合いが少ない。 つまらないのは自分の頭が悪いせいだと言われれば反論のしようがない。若しくは興味のせいだと言われてもその通りだ。 しかし、今のこの大学の授業が非常に有用で面白くて知的で学ぶ意義があると思う人間は何故学問等やっているのか。家にこもって本でも読んでいても変わらないではないか。教授は果たして教科書以上の事を云っているか?英語の授業が一番議論のバリエーションに富んでいる現状は・・・。(昨年原子力の話が出たのは社会学と英語だけであった。) 俺は馬鹿だから、 むかつくのはおいそれと授業に出ていい成績をとって大学をでていい会社やいい大学院に入る事がエリートとしてみなされるような風土であろう。つまり、俺もその一人であるが。大学文化か何かか。文化って言葉は便利だな。 エリート意識を持てと、某法律予備校の塾長が言っていた。 確かに、その塾長はエリートかもしれない。選ばれて、人の為に尽くしているという事だろう。 確かに、自分を律する根拠にはなる。しかし、そんな理由で自分を律する奴など俺は吐き気がする。 そんな意識で大学に入ってきた奴らにも吐き気がする。そもそもそんな段階でエリート意識を持っているやつは何なのだ。当然のごとく上からモノを見る奴は何なのだ。 エリート意識というのは、結局は選ばれるものでなく、自分が、選びとるものなのだ。 話をきいてそう思った。一方では素晴らい人間になりえるかもしれないが、一方では確実にナルシストだ。 そういうバランスを含んだ意識という事だと思う。 俺は常に吐き気を催している。認めたくないが、俺も上からモノを見ているのでその輩のはしくれであるだろうから。 こういって自分なりに考えて努力をして楽しい時間が過ぎたなぁと、働き忙しい時にふと思い出すのが大学時代なのか。そういう文化なのか。そりゃそこそこ楽しいけどさ。 |
今回の小沢がらみの裁判について、まあすごいというか。なんというか。
まず驚いたのはマスコミの行動。 1コメンテーターの発言。 「確かに、推定による裁判と言って批判する向きもあるけど、裁判員裁判やなんかという流れの中で、こういった新しい裁判の形ができてきたということなんじゃないでしょうか。」 流石にビビる。てかこんな事を言っていいのかホントに。 流石に全体的な報道はこれよりもましであったが、批判に偏っているというか、取り敢えず揚げ足とっとけという事で、何の理論武装のない裁判所・検察擁護の姿勢であった。 流石に笑った。 |