× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
俺と友達と旅行していると、後ろの男二人組の会話が聞こえてきた。
旅行についての話らしい。 「俺、気付いたんだけど、どこに旅行したって自分は自分なわけで。旅に出て初めて気づくんだけど。」 ベンチで寝てたから会話はよく覚えていない。むしろバカみたいに暑かったのだけは覚えている。 こんなことをいうやつもいる。どこぞやの教室で聞いた話。 「自分で努力して自分を変えるのはなかなかむづかしいから環境の方を変えてやるっていうのも方法の一つだよ」 こいつの発言の趣旨が若干浅薄に聞こえるのは、自分が変わっても自分は自分であるという点を見逃していることなのか。 自分は、どこにいっても、いらない時にだけよく働くような、このポンコツな思考能力をもつ脳と一緒にいなければいけないようだ。 でも、”ただ脳を運んでいるような連中”とか”自分の脳を金科玉条のようにあつかう連中”のように首や肩に負担がかからないだけましだ。(その手の連中は本当に脳の重さと知能に何かしらの関係があるとか思いこんでいる。しかもその連中のいう”知能”は、例えば上手くパワーポイントを使えるかにかかっていて、しまいには演繹的パワーポイント講釈を始めて俺は吐き気を催さずにはいられなくなるだろう。) 授業がつまらなくても頭を垂れない為には、普段から首や肩にその手の”鍛錬”を受けている必要があるに違いない。 そして、授業にでて寝るくらいなら最初から行かないほうがいいと気づいたこの頃。 |
水を飲んで運動して汗をかくのがいいと、どこかの国のやつがテレビで言っていたのを思い出したので、実行したらなかなかいい感じ。・・・・大した風邪じゃなかったのかも。
しかし、このブログを書くのも久しぶりだなー。 そろそろシュウカツの重圧がそろそろ迫ってくる頃っすね。 嗚呼。 四六時中セロトニンを分泌して困ってないような、自信たっぷりでバカな連中と無為なアピール合戦をするなんて。 私、大学でがんばって勉強しました、的なアピールとか。退屈で吐き気のする自己分析とか。 大学の勉強(人文科学系)なんて、バーで女を口説く位にしか使えない気がする(だから俺には価値がない)。 医学等の帰納的に忠実な学問なら学ぶ価値はあるものの(さらに確実に金になる)、法学のような分野であるなら金にならないならやらない方が良かった。民族舞踊実践とか学んだ方が人生にとって有益だった。 「私、勉強しました」だぁ?とかいって話してみると大したことはなくて、つまらない小説の筋書きみたいな学説の話をしだす。 俺は、どうせ勉強しないならと、素直に小説でも読むことにしている(その小説がつまらなかった時は最悪の気分になる。そこまで小説が好きではないのだ)。 ゼミじゃない方の労働法の授業なんて、まるで教授に対する讃美歌を歌わされているようだ。(鳥が人間の言葉をまねると餌をもらえるが、こっちでは点数がもらえる) 尊敬する○○教授の集大成の論文だと?だから何だ? ”法における人間像が現実と乖離しているが、むしろそのおかげで法固有の意義を固有する” 私は学会のおかげで生きております、と言っているのか?本当に学問をやる気なのだろうか。 課題が要約でなければ、ディスったら負けみたいな企画をやらされてるのかと思った。(因みに優秀者は自分の要約を読みあげなければならないというものだった。可哀そうに。) だめだ。授業に行ってないのに授業の批判をするのは。クズ過ぎる。 |
あけました
今年はどうしようというか、就活ですねこのやろう こうして社会に健康な労働力が配給されて行くのを労働者自身が微笑ましく思わなきゃいけない空気が存在するとしたらそんなものはくそくらえ そんなことを言ってクソ食らうのは自分ですが、、 さて、大学生活もそろそろ折り返しに近づき、今まで何をやってきたのか反省しなければなるまいと決意し始めました その前に差し迫る成人式。 しかし何がそんなにおめでたいのか。 家族にとっては(中身はどうあれ)今までよく育ったなあということなのだ これはわかる しかしまあ、今まで20年生きてきて何をしてきたのとか、人生の抱負はみたいなものがない自分が、 日本中のお茶の間のお祝いムードに伴った"若者亡国論"のような見方の格好のモデルであることを否定できないもどかしさがある 成る程、それを振り切れる自己満足もないのだ ああ悲しき哉 酒があれば大抵のことが忘れられる性分が今になって憎い しかし20になることなど誰が実感したいというのだ。 浪人生によると、あんな式は人生の成功者の自慢ようなものと愚痴をこぼす 流石にそこまでは思わないにしても、まあ分からんでもない。誰が浪人中に行くものか。 そう思えばまだ精神的余力があるだけでもマシな方だ。 そう いつでも前向きな姿勢は必要だ 必要がなければそんな姿勢はとらないのに、仕方なくだ このようなしたたかな反抗心の生成を促進しない社会の構築が。。。 みたいなことをグダグダいうのが成人か!笑わせるぜ。 |
図書館の最上階の隅にどっしりと構えて、それでいて誰にも借りられていなかったヤツ。
そいつを引っ張り出して借りて、丁重に延滞している。 図書館の玉座を占める、適当なレポートに使えそうな20年前の政治経済の本の借入状況はそれはもう華やかなもので、この時代に至っても冷戦の脅威を我々に云い伝える素晴らしい資料として働いている。 これらの分野の進歩の遅さに辟易とした学生を生み出したいのか、もしくは的外れな数十年前の予言から学問そのもについての信憑性を失墜させたいのか、図書館が本質的に達成しているのは本の管理と保全という事を、我々は決して忘れてはならないのである。 そんな図書館において、仕事もせずのうのうと時を重ねるだけのヤツと出会った。 無論表面にそんな様子は出さなかったが、最後のページに図書館員が事務的に貼りつけたであろう返却日を捺印する紙の履歴をのぞき見て、ヤツを読まなければならないと思った。 ヤツが読んでくれといっている気がした。 ヤツらが出す、厚く読みにくいといった雰囲気は自分の的外れな同情と親近感で消え去っていた。 それからヤツは生活の中で大きな位置を占めるようになった。何ともどの話も現実的で幻想的であることか。現実感を持って普段生活しているとは言えないからか、現実感があり過ぎることは、より幻想的に映る。 今日ヤツを読み終わった。無論それはヤツらの中のたった一冊でしかないので、正確には少し読んだというのが正しい。 全部読んでやろうか。そういった意地のようなものはあるが、一方で全部読み終わった後のヤツを失う孤独を考えると、むしろここらで読まないのが正解か。 そんな思いを描いているような小説だと思った。 (多くが恋の話ですよ実際のところは。) |