最近曲を作ってUPしたが、あまりにクソすぎる。
しかし、ここまで時間をとってここまでクソと言うのは、やはり才能の問題はかなり大きいと感じてしまう自分がいる。
現時点では、十分に努力の余地のある段階ではあるので、ただのいい訳にしかならない。
しかも、そもそも好きなので作るのをやめる事はないと思う。
ただ、才能という言葉は、とても便利で残酷で、説得力がある、そう思わされる。
物事には向き不向きと言うものがある。今までの俺の短い人生でも、それを感じる出来事は少なからずあった。
勉強、スポーツ、人間関係等等。
自分の向き不向きを知るのは、重要なことかもしれない。
何でもこなせる奴は努力努力というが、本当にできない事は、本当に出来ないのだ。いくら努力しても。
その”いくら”の努力をしているうちに人生の大きな時間は失ってしまう。
運のいい奴はいい。だけど、見る限りそんな運のいい奴というのは多くなさそうだ。
あー、だからどうこうという結論はない。俺などが知ったかぶっても、大した事も言えない。
ただ、過激な事を言う。(間に受けられると困る)
才能は明らかに学問にも存在する。(学問は特に科学に限定しなくてもいい。)
大学の進学率が50%まで上がり、感覚としてはそれでも低いとは思うものの、かなり多くの人が大学に通うようになった。
大学にどんな意義があるかとかそんな話は分からない。
だが、社会的に見ても、学問の発展という観点から見ても、自分が頭が悪いと思っている奴らが大学に行く事は極めて時間のムダである。
奴らには才能がないのだ。
さらに言おう。一番可哀そうなのは、馬鹿なのに其れに気付かず、学問の世界に奥深く足を踏み込んでしまった人間だ。
馬鹿なので、自分が馬鹿な事に気づかないとも言える。
意味の為さない自分のクソをまきちらし、それでふんぞり返る。学者の謙虚さが、そのような行為に対する畏れから来るとは考えもしない連中だ。
いや、無駄ではない。むしろ害なのだ。
池からバケツで水をすくい、また元に戻すのと同様な意味しか為さない学問に、才能のない人間が群がり、富の分配に与り、ひどい時は権威すら持つ。
特定して言わないが、完全に害だ。
俺はそう感じる。
こういうのはコンプレックスや過信があるクソ野郎がよく言う言葉だ。
俺は馬鹿が嫌いだと思っているが、その考えの背景には、自分は頭がいい、というクソな過信がある。
正直に言おう。ある。
聡明で頭の切れる紳士はそのような発言はしない。(もしくは、興味を持つほど馬鹿ではない。)
だが、それでも強く思うので、書く。この現象は完全に害悪の類だと。(同時に、強く主張したいのは、全てではなく、一部だということだ)
気付かないのだ。奴らは。淘汰されないのだ。むしろ、淘汰の本質は、”本物かどうか”に関係しないのだ。
正直に言おう。俺は、自分が頭がいいという過信にも関わらず、実際は学問に値する程は頭が良くない。これが現実だ。
勉強をしない言い訳ではない。人生の中での大きな実感だ。
頭の良さに関して過信家で謙虚のない俺ですら、だ。
比べれば、音楽など才能のかけらすらない。
ゆえに、俺も傲慢さと自己陶酔の中で音楽を作って楽しむ時は、ひっそりと趣味として楽しむことにしようと今日考えた。
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