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幸福は人生を図る指標として使われる。
周りを見渡せば、自分が幸福であることを他に示したり、幸せであることを偽装したり、他の人とは違う本当の幸せとは何か(まるで密教の教えのように)こっそり抱えたり教えようとしたりしている。 Facebookの幸せ、楽しそうアピールとか、そうでなくも幸せをひけらかす輩は多い。(個人的には、あそこに食べ物の写真をさらす奴は、自分がこれだけうまいものを食えているという幸福アピールに、これだけ栄養素があるものを獲得できる意味で遺伝子的に他よりも優れているということを(主に異性に)示すアピールもあると思っているが、この説明は省く。) なぜか、皆、人生は幸せであるべきだと思っている。 そして、幸せのパターンは人によって違うといえど大体決まっている。お金、地位、名誉、よき伴侶、よき友人、よい食事・・・・・ でも、大多数はそういった幸せとはかけ離れた人生を歩んでいて、幸せだろうと思い描こうと必死になってもがいている。 (幸せの形は決まっているが、不幸の形はたくさんある、というトルストイの言葉がよぎる) さらに、幸せのパターンに沿った人生を歩んでいても、幸せだと感じない人も大勢いる。 (大多数は違うかもしれない。これでいいんだ、と、自分をだませる人なら。自分という存在は自分でとてもだましやすい。「だからこそ最新の注意を払わないとならない」、そう思っている人にとってはそんなに単純な話にはならない。) たぶん、幸せは人生とあまり関係がない。 幸せとは以下のようなものだ。 単純に幸せという感覚が脳内物質の問題や自分の遺伝子をより良い形で後世に残すことだと仮定して、まあ、死なない範囲でドラッグをやるとか、(あれは人間が自然的に得れる快感の範囲をはるかに超えているため、なかなかやめられない人が多いのだ)、社会的にだめなら社会的に許される範囲で楽しいこと(お金、地位、名誉、よき伴侶、よき友人、よい食事をはじめとして、酒、煙草、威張る、権力をかさに着る、人を顎で使う、インテリぶる(大抵自分がわかってないことをわかってない状態で))をすればいい。合法的にできることなんていくらでもあって、大抵みんなそういったものを目指している。 一方で、人生とは、まあ人が生きているというだけのことだ。死ななければ生きている、それだけのことである。 つまり、幸せでなくても人生は人生だ。 そして、幸せであるほうが人生は長続きさせたいだろうし、納得しやすいものになるだろうが、幸せでなくとも人生には納得できる。 人生に納得することと幸せにはある程度つながりがあるが、果たして我々は、そんなものが所詮脳内物質の仕業だと気づいたときにも、そんな”幸せな状態”をもって納得していいのだろうか。 いいのだろうか、というか、実際のところ、そんなものでしてしまうものなのだ。そんなに人間は強くない。結局、自分が頭で思い描いている人生があったとしても、結局今まで昔から人間が幸せだと思っていたもの(食、睡眠、怠惰、性向)に屈する。 それでもそれに反抗したい。 これが理性である。 最後に納得して死ぬときには、自分が幸せでなくてもよいいう吹っ切れた、俗世離れした、大抵誰にも理解されない、そういった類のものであろう。 人の幸せは百人十色だから、そいつにとっては、それが幸福だろう、とかいう相対主義者は多くいる(大抵文系の間抜け野郎で、美学も何もなく何も後世にためになることを生み出さず死ぬ俗人どもだ、まあ俺もこの部類かもしれない。絶対的なものへの崇拝は神的崇拝のようなものに近いが、我々の知性は曲りなりもそういう形で進んできたのだよ、macbookを使って教養のあるふりをする諸君)。 否。 原始時代からの報酬システム(原始的な幸福を生み出すものへの執着)を乗り越えるものが理性で、それを乗り越えた人生と、乗り越えられない人生には確実には、違いがある。幸せかどうかは関係なく、それ以外の、言葉にはなっていない何かの質の問題だろう(言葉になっていなくても、存在するものはある、あたり前の話だが)。 そして最終的な問題は、乗り越えた先で、何をしたいかにかかっている。所詮遺伝子の要請以上のものはないのだろうか。そうだとしたら、こういった理性には何も意味がなくってしまうのだが。 PR |
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