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【2024/05/03 18:29 】 |
社畜
社畜とはなんだろうか。
社は会社の社で、畜は、畜生や家畜の意味だと思う。
5歳児以下の書き出しだが、我慢してほしい、とにかく何か書きたい気分なのだ。

会社とは何だろうか。似た組織形態が歴史上あったか。
とりあえず、会社というのは、金を設けるための団体に間違いはない。設立や行動目的が金だけだと言っているわけではなくて、ただ単に、その組織構造が利益を生み出すこと、ないし利益を生み出すための機能に特化しているということを述べたい。
人々の役にどれだけ役に立ったとか、人類にどれだけ貢献したかなどは副次的な意味しかなさず、法律にのっとっていうという程度の誠実さを纏って利益を上げることが会社の現状であり、そうでないと存続できない。

存続、まるで生き物のように会社を扱っている。いや、もしかしたら生き物なのかもしれない。

そんな思いから、ある妄想のもとにストーリーをくみ上げてみた。

人間は、生きている限り、金と権力から逃れられない。
それをひしひしと感じさせる例が、働く、ということだ。
会社(およびそれに準ずる組織)にはルールがあり、上下関係、つまり権力があり、そしてその中で生きることで、金を受け取る。
働くということ以外でも、ほぼすべての人生の活動は金と権力にかかわってくることに間違いはない。あらゆるものに、金、モノ、ルール、権力がまつわる。
一回、こんな世界から抜け出したいと思って、自分は家でずっと寝てみたり、遠くに旅行に行ったりしてみたわけだが、そのたびにこの事実を強く突きつけられている気がする。(ずっと家で寝ていてもお腹がすき、ご飯を買うのにお金がいるし、水道、ああ賃料。そしてゴミ出し、洗濯。)
一番いいのは仙人になることなのかもしれない。自然の中で生き、死ぬ。権力も金もモノも関係ない。

さて、ここまで考えたときに、金と権力が存在するのは、人間が集団的に行動する動物だからに違いないというアイデアがよぎった。集団で行動するときには、上下関係(役割)、食糧配分・生活のルールが生まれてきてしまうものなのだ。そのルールが現代では、金や民主主義とか社長とかなのだ。でも、なんでそんなルールになっているんだろう。むろん答えはないけど、他にだってやり方はあるだろう?(共産主義どうのこうの言っているわけじゃあない。もっと根本的なことだ。)

お金というか貨幣という概念自体は昔からあったが、どこの誰が、なんのために考えたのだろうか。
よくある答えは、商人が、自らの商売の便宜のために、もしくは物々交換より効率的なシステムであるから、というものだ。もっともらしい。でも待てよ。もっともらしいということ自体は真実とはなんの関係もない。むろん真実は証明しようもないから、あるところで納得するか考えるのをやめるしかないにしても、だ。

自分はこう思う。
貨幣という制度を最初に取り入れたのは、ある程度権力を持った人間であった。つまり貨幣の登場以前に当然権力関係は存在していて、その上にお金という制度を取り入れた。一体なんのために?
自らの権力や地位をより確固たるものにするためだ。
そのころの権力というのは、例えば宗教的なものとか、民族的な血にまつわるもので、リーダーが決まっていた。でもその概念というのは、非常に不安定なものだし、争いを生みやすい(歴史的にも、正当な宗教の後継者や王族の争いというのは熾烈であった。もともと目に見えにい権力というのはいさかいを生みやすい。)。権力者も、そんなあいまいな概念に身を寄せて暮らしているだけでは不安である(無論、権力者は自分の権威を示すための工夫は忘れることはない)。そこで、お金という目に見える形で、なるべく平等に見えるように論理で武装して、一般市民にはわかりにくい形で権力関係を固定することを試みた。
金を作り、権利的な関係の上に献上してもらっていたものの対価として金を渡す。別に金を渡さなくてもうまく回っていたのだが、金を渡すことで相手により納得感を与えられる。とは言っても、そもそも、なぜ、ものを献上しなければならないかというと、それは権力的な関係のせいだ。(最近はものではなくて、お金を献上する仕組み、つまり税ってやつだ。その昔はお米だった。税を納めなければいけないのは、民主主義というこれまた不思議なシステムのベールをはがせば、権力のためである。税を納めないと捕まり牢屋に入れられ、労働させられる。)

ちなみに、そのお金は権力者の手が届く範囲で使用可能であり、つまり、そのお金を持っている限り、そのお金を持っている人はその体制の安定性に寄与するほうが得をするわけである。これは権力者にとってありがたい。お金を持たせることで相手をむしろ縛るわけであるし、貨幣がg流通する範囲で自分の影響力も広がる。権力者はお金を権力の範囲で好きなだけ発行できるので、実質的には一番優位に立っているが、金本位性等、作れるお金には限界はあるため、お金を多くため込んでいる人間がいる場合、貨幣経済の論理が浸透しすぎると権力者にとっては脅威になる。別に、いちゃもんをつけて、貨幣経済の論理以外の力(軍事力)でお金を奪い取ってしまえばいいのだが、あまり派手にやりすぎると、折角ベールに隠していたいさかいを生みやすい権力関係の部分がぎらつき、権力者に対する反抗を生みやすくなるので、なるべく穏便な形で避けたいというわけだ。
物々交換よりも効率的なシステムというだけではない、より権力のあるものが発行したお金であるということがそのお金の価値を担保する。別に、権力があれば、誰が発行したお札でも構わない。
ここでいう権力は、相手を屈服させる力、奪い取る力、つまり暴力、軍事力だ。人間も動物である。食糧やその他必要物資が生来的に必要で、生きるためには最終的にはそれを奪い取る必要がある。これがすべての根底にある原理だ。(人間は理性的であると信じている人にとっては受け入れがたいかもしれないが、少なくとも人間には理性的でない部分もあることは確かだし、少しでも観察すれば他の動物があまりにもこの原理に従っていることに異論をはさむ余地はないように思う。つまり弱肉強食だ。)

結局、プロレタリア革命が起こって、宗教的なものや血をよりどころにした権力者の時代はおおむね終わりをつげ、貨幣を持っているものがもっとも権力を持つ者と同義になった。
そいつらの考えた論理はさらに、巧妙なもので、資本主義だとか(考えてもみろ、資本主義という言葉の持つ意味を。お金がないものにはどれだけ皮肉に聞こえるものか。)、民主主義だとかいうものだ。(共産主義はどうかって?これは資本主義に対する対抗だったのはよいが、貨幣の論理をなくした先には、そもそも人間が持っている権力関係を表出させるだけであったために、貨幣経済信奉者にとっては耐えられない苦痛に見えた。皆が平等だという考えはいい。権力者にとってはそれを信じている羊は扱いやすいのだから。)

これは非常に巧妙だ。
まず、権力者は一般人が選べることになっていたが、権力者が権力者たるためには、後押しが必要で、そのサポーターは金を持つ者のため、実質的にはサポーターが大きな影響力を握れる。マスコミでもなんでも使えばいい。(ちなみに、会社という新たな権力関係を生む機構が生まれる。つまり、金のために”人を使う”ということが公然と肯定されたのだ。これは金持ちにとってとてもありがたいことだ。むろん、あまりに行き過ぎるとお金の論理がぎらつき、金持ちに対する反感を生むので、一定の制限をもうけることには双方にとってメリットのあることであった。つまり、議会に法律を通すことを認めるのだ。その意味で民主主義は、多くの貧乏人が怒り狂って金持ちを殺しにいかない程度にはお金の論理を否定する。)
サポーターという立場は一番いい。まず、前面にでてストレスや不満のたまった貧乏人から批判されることもないし、権力の範囲が多くなればなるほど、民衆の前に出ることはリスキーになった。なぜなら、たとえ日本で5000万人を屈服させても、残りの5000万人が納得しなければ権力は安定しない。割合ではない、絶対的な”数”の論理がそこにはある。100人であれ、本気で殺しに来られたら一人の権力者にとってはひとたまりもないのだ。だから、見えないところで自分が手綱を握っているのが一番よい。もしくは、手綱など握らなくてもお金の論理を使って好き勝手できればよいのかもしれない(法律の範囲内でお金によって人を屈服させられることで満足するのならば)。


自分は権力者権力者言っていて、まるで悪者だが、絶対的なものではない。
つまり、他人を使って安定して楽でよい暮らし営み、他人に命令されない。これが権力者の願う生活だ。つまり自分たちとさして変わらなかったりする。自分たちのように不安定で人から命令され厳しい生活をするものからすると理想である。つまりそういう生活は他人の犠牲の上に成り立っている。社畜は犠牲者であるが、まだ自分たちなどいいほうだ。
軍事力もある程度あり、権力機構も安定している我が国は(アメリカという巨大軍事力国家の庇護のもと)、他の国の人々を安い給料で働かせてものを輸入できるので、結果的にはある程度優雅な生活をしている。高級奴隷のようなものだ。いうことさえ聞いていればそこそこの生活はできる。(発展途上国、最貧国がずっと貧しいのはなぜか、我々が間接的に搾取しているのだ。彼らの国で米ドルが信用があるというのはどういうことか。すなわちアメリカという国のお金の論理が権力範囲がその国まで及んでいるということで米ドルを持っている人間は権力を行使しやすい。米ドルと安定的に価値を交換できる通貨をもつ人も同じだ。お金もちはボーダレスにその力を行使しやすい時代になった。お金持ちにとっては都合がいいのだ。ついには、世界的企業というかたちで国家の権力をゆうに超えてしまっている例もあるかもしれない。世界的企業がお金によって複数の国の政治家をコントロールできれば、それほど権力者にとって楽なことはない。国という隠れ蓑の統治機構を作った時にできた民族や国のアイデンティティが複数の国をまたいでお金の論理を通用させるためには大きな障害になっているのだ。そこでグローバル化という考えはいい。大体お金持ち(と軍事的にも一番力を持っているの)は欧米人で、白人の論理でものが進むのがよいに決まっているから、英語で、欧米のルールで画一化がきまる。言っておくが、今の時代も大戦の時代と同じく弱肉強食なのだ。欧米のいい暮らし、素晴らしい人権、公平なルールなどという考えは、彼らの国の金持ちたちが実質的に影響力を持ち得る世の中を作っていくために必要な甘い言葉でしかなく、国籍や国境に関係なく多くの貧しい人をお金の論理で動かしていくという意向でしかないのである。
国連・国際会議などを重要視せず、日本の権力者が自分の国の国民に対する支配を欧米諸国の亜金持ちから守り切れるのであれば、日本人の我々にも金持ちになって(日本人を使うことで)よりいい暮らしをできるという道筋が描けないこともないが、欧米の論理が入ると、日本人の自分たちが彼らの中で、彼らを使っていい暮らしをできるという算段ははるかに立てづらくなる。
ただでさえ、白人>有色人種がグローバル文化の前提なのであるから。

このように、日本人だ、日本だ、白人だ、という意識は、民族や国家、人種をもとにいろいろなことを考えている証左なのである。つまり、血や部族、見た目などによってアイデンティティを構築する・・・・・原始時代と変わっていないではないか。悲しきかな。とりあえず貨幣の論理に関してはこんなとこだ。

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【2015/03/19 01:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
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